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私の事
傾く日本

 

*** 私 の 事 ***

 読者の皆様、こんにちは。中村 文則です。私の広島市内での活動について、少し話させて下さい。閉塞感の漂う日本の社会の中で、若者達に「こんな人がいるんか。」と少しでも刺激になればと思いここに記すことにしました。

 私が一人で始めた入試廃止・人間教育の運動は、やっと小さな明かりが灯った様に感じます。市内を自転車を押して歩いていると、「ガンバりんさい」とか、手を振って下さる人に出くわす様になりました。やっとここまで来た感じです。あせらず、たゆまず、これからも運動を続けていきます。 私が渡米を思うようになったのは、修道大学に入学したころです。そのころは、広島商科大学と言っておりました。入学式の後、私は校庭の桜の木下の芝の上に寝そべって、満開の桜越しに青空を見ておりました。そして、「よし、アメリカへ行こう。」と心に決めました。そのころは、変動相場制が導入される以前のことで、1ドルが360円、そして大卒の初任給が5万円6万円の時代でした。ハワイ旅行と言うのは、芸能人しかも勝新太郎・石原裕次郎の世界の出来事で、渡米など、ましてや留学など金銭的に庶民にはとうてい考えられない事でした。
 私は、資金作りの為にアルバイトに奔走しました。工事現場で働きました。ドカチンをやりました。「アメリカへ行ってみたい」と思う、その一心。大学を卒業したからも一年間、工事現場で、朝から夕方そして夜中まで、働きに働きました。そうして貯めた金をポッケトにねじ込んで、ジーパンと歯ぶらしをリュックに詰め込み、辞書を片手に海を渡って行きました。 広島を離れる時、父と母が駅まで出て見送ってくれました。父は最後に、「男児 志を立て郷関を出ず。学もし成らずんば死すとも帰らず。」の言葉をたむけてくれ、母と別れを交わして、私は新幹線に乗り込みました。 座席に着いて目を閉じると、今までの事が次々と心によみがえって来ました。あの夜、あの工事現場で「 クソーーー、必ず、必ず。。。 」と自分に言い聞かせながらハンマーを振り下ろしていた時の事や、つらかった事、苦しかった事、その一つ一つが私の心の中によみがえって来ました。そして「あすは、いよいよ海を渡る。アメリカへ行く。。。 」 涙があふれ出て、ホホをつたって流れ落ちて行きました。
 翌日、私を乗せた飛行機は、サンフランシスコを経由してアメリカ大陸のど真ん中、イリノイに舞い降りて行きました。飛行機を出て、タラップを降りて、そして踏みしめたその大地は。。。 大平原の真っただ中。目の前には、どこまでも続くコーンフィールドと見渡す限りの大豆畑が広がっておりました。まわりは全てアメリカ人、言葉の通じぬ世界。それから先は何もかも、一分一秒が新しい体験、新しい出来事だった。それはまさに不思議の国のアリス。私の行ったアメリカは、まったく別世界でありました。 年月が経ち、30代のころになると、私は大学で教鞭をとっておりました。 ニューヨークの大学で授業をやりながら、「このすばらしいアメリカの大学教育が日本にあったら、日本はどんなに豊かな国になるだろう。」と思いました。そして、いつか日本に帰って運動を始めよう。子供達の為に、みんなの為にやってやろうと考えるようになりました。
 あの自転車(ペダル無し、押し車)を作ったのは、10年余り前の事です。自転車にスピーカーを取り付けて旗を付けて歩くなど、誰もやったことのない事で、電気屋さんに言うと「自転車にスピーカーを取り付ける? 聞いたことが無い。」と言われました。私は、見取り図を書いて自転車を鉄工所に持っていき、取り付け金具を作ってもらいました。初めは、溶接部分が折れたり曲がったりしました。何回も作り直しました、旗も、初めはうまく回転せず、風が吹くとヨットのようになり、2時間ほど押すと疲れて体がガタガタになるほどでした。橋のたもとで、突風に吹かれて自転車もろともひっくり返り、腕が折れそうになったこともありました。そのころは、私が、「今日は。。。 」と挨拶しても、人々は、顔をそむけて通り過ぎて行くだけでした。「国立大入試廃止運動」と書いた大きな旗を見て、過激派と思ったのです。私は、一日中録音テープを流しながら市内を回って人々に訴えました。
 夕方、日が暮れて家に帰りながら、夜空を見上げて。。。星を見つめながら、 「くそったれーーー。 」と、叫んだ事が何度もありました。「何でジャ、、、 何で わかってくれんノンじゃ。」 夜、寝床に入って布団のなかで、私は、昔、ニューヨークで授業をやっていた時の事を思い浮かべました。「何とか、この大学教育を日本に持ち帰りたい。子供達の為に、みんなの為にやってやりたい。」と、思ったあの時の事を思い浮かべて、「よし、明日も出て行くぞ。」と、自分に言い聞かせる日々でありました。 月日が流れ、さすがに、顔をそむける人も無くなり、又、警察に止められて、職務質問をされる事も無くなりました。しかしながら、やっても、やってもだった。SOGOの前に立って、チラシを配った事も有りました。しかしながら、1時間やって、たった4枚しか配れなっかた。市内に出て、「入試を廃止して、子供達を子供として育ててやる。そして、大学に入ったら、今度は一生懸命勉強する。そう言う制度に変えて行かんといけんのです。国立大学は、税金でつくっとるんですから、庶民の為の庶民の教育の場にしないといけんのです。
 アメリカの様に、開かれた大学にしないといけない。」と訴えました。しかし、反応はありませんでした。やっても、やっても。それは、あたかも羊の群れを相手にしている様で、何を言っても、どんなに訴えてもまったく反応無し。「何とかこの国にアメリカの大学教育を持ち帰って、種を植え付けたい、芽をふきださせたい、」と思う私の気持ちは、ただ空を切るだけでした。 そんな私を見て、兄たちは、「発想がまさにティーネイジアー。ティーネイジアーの夢物語。」と呼び、又、ある若者は、「童貞瞑想政治」と、名付けました。 昨年の選挙(2009年8月 衆院選)は、暑かった。私は、南区は青崎から向洋、そして東区は温品から福田まで自転車を押して回りました。
 人々に訴えつづけました。「誰かがやり始めんといけんのです。物事は、何でも、やり始める者がおらんと始まらんのです。」と言い、又、「立候補に掛かる300万円の供託金は、没収される。これでは、一般の人は選挙に出られない。明治憲法と変わらん。民主主義じゃない。縄張りを張って、一般の人が出てこれん様にしとるんです。昔の貴族が政治をやっとるんといしょです。」と訴えました。しかし、結果は散々だった。私に投票したのは100人中たった1人。それは、ショックでした。道行く人から、「中村さん、あんたのやっとる事は、この国には100年早いんです。自ら制度を変えて行くと言う、そういう国民じゃないんです。この国の民主主義は、アメリカさんからいただいた民主主義です。アメリカさんからもろうたんです。市民が決起して、血を流して勝ち得た民主主義じゃないんです。」と言われました。アメリカから、電話が掛かってきて「何で、お前はそれほどまでにエネルギーを燃やし、情熱を傾けるんじゃ。誰も気.にしていない。。。 もう十分ではないのか。」と言われました。

「 ティーネイジャーの夢物語 」言わば言え。

子供達の為に、みんなの為に、思う一念。

人生は一度

                   中村 文則